日本ならではの茶生産を、継続可能なものとしていくには荒茶価格で平均単価が¥5000/kg以上でなければならない。
つまり、仕上げ茶として¥1200~1500/100gクラスのお茶を中心に販売していかない限り、茶産地の未来を食いつぶしているということだろう。安価なお茶をどんなに沢山販売してもそれは会社や個人に都合がいいだけで、その根幹となる部分を疲弊させているだけといっていい。かといって、出来の悪い茶を高価格で仕入れることなど出来はしない。生産者はその価格帯に見合う茶を生産してくれなければ買いようもない。茶価が安いという声を聞くが、値段なりのものが多いのも事実。
効率化を旗頭に邁進してきた大型機械による茶生産は、実は外国での生産を可能にするということとイコールになる。お茶に限らず、小さく、細かくするほどに正体は見えなくなってくるものだ。知ってか知らずがそんなお茶が溢れかえっている。
今ならまだ世界に向けて「嗜好品」として胸を張れるお茶が日本にはある。ただ、今のままの延長上には未来は無いことだけは確かだろう。茶業界は歴気を振り返るとここ100年ほどの間にいくつものターニングポイントがあった。今はまさにその時のように思える。
茶の「~にいい。」や「健康にいい。」といったような保険成分を前面にしていくのであれば、何も日本でつくる理由はなく、事実として日本の研究によるこの部分の情報は海外生産の製品にこれ幸いとばかりに利用されています。日本産ではない「日本茶・日本式の緑茶」と表記された安価なお茶が店頭にすでに並んでいる。
海外と比較して、約5倍は高いとも言われる日本の農産物。価格差にさらされることは必然であり、そこに挑むのであれば安価な仕入れの方向にならざるを得ない。ただ、これは継続可能な日本ならではの茶生産の姿なのかといえば疑問だ。また、良質な茶生産が可能な山間地は大量生産が出来る環境ではない。
機械化されたものづくりというのはある意味で非常に脆弱だ。生産機械の製造、メンテンスが出来なくなれば人がいても作れなくなってしまう。現在の良質な日本茶は伝統工芸品と大量生産品の中間にあるもので、最も無くなってしまう可能性が高い。伝統工芸に近い、手揉みのお茶は今後も残り続けることだろう。大型機械による大量生産のお茶は圃場整備をし、より効率化を目指せば(生き残りゲームではあるが)一部の企業は残っていけるかも知れない。
だが、先人が残した明治より始まる手揉み製法を機械化した「日本茶のもっとも日本茶らしい製品」はこの流れの中で消えていくしかない危機的な状況でグズグズしていれば気がついた時には無くなってしまう。
無くさないように出来るのは誰でもない、物を売る者であり買ってくださる方達だ。
規模は異なるが、フランスのワイン生産と販売は参考になるように思う。
1本100万(この値付けには疑問も無くはないが)から100円まである嗜好品。お茶とよく似ているように思えるが違う。ワインは国内で嗜好品として「消費」されているのだ。高価格帯の食品を「嗜好品」として楽しめる環境が出来上がっている。お茶の弱い部分だ。
高価格帯のお茶はギフトとして使われ、その味を楽しもうとして自ら購入する人は少数派になっている。高いお茶の美味しさを伝えて来ることに力をいれてこなかった結果だ。
だが、であるのなら今なら出来ることはまだあるということでもある。

60k製茶ラインによる荒茶